否定することで強い自己肯定感が得られる

投稿日 2024.03.03 更新日 2024.03.03
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タルパ界隈では⋯タルパの存在を否定する事は、極端に忌み嫌われた行為となっている。しかし、明らかにタルパでないものまでタルパと称される風潮は、これ以上の不幸を生み出さないためにも改めるべきである。前提条件を満たさない者、説明できない者は⋯心象自体は本物なのだから、それを元に再出発すれば済む話だ。正しいやり方を学び直して、もう一度、最初からやり直すべきだろう。本当のところは、勉強嫌いであったり、訓練が面倒なだけだったのだろうが⋯心を入れ替えて、今度こそ本気で思念体に挑戦して欲しいと願う。それが嫌なら、迷惑なのでなりきり界隈へ移住して欲しい。そもそも、希望的観測に基づく肯定は、本質を大きく見誤る元凶でしかない。そんな甘い考えでタルパなんか作れる訳ない。実は否定こそが本物への最短距離となる。

全面肯定したら真理から遠退くのは当たり前

重要な点になるので、本題に入る前に注意書きをしておく。ここで言うタルパとは⋯魔術や占いなどのスキルを応用した、人工精霊としてタルパになる点だけはお忘れなきよう願いたい。適当なところで、たまにこのような注意書きをしておかないと、本物のタルパはチベット密教の僧侶でないと作れないと言ったじゃないか!と文句を言う者が必ず出て来る。で、否定こそが本物への最短距離と述べたが⋯これは一体どういう事なのか?かんたんな論理である。すべての条件を肯定したら、どれが本物なのか分からなくなるのは当たり前だ。ちょっと意地悪な言い方とすると⋯単なる思考停止や同調圧力とも言えるだろう。無条件に全面肯定して、無意味な希望を与える行為こそ無責任である。逆に、すべての条件を否定的に見てみることで、どれが本物なのか見極められる。

タルパ作りに自己肯定感は必要だが肯定の意味が違う

みんなバラバラのやり方でいいじゃないか、それぞれの精神世界は独立国みたいなものだから、内政干渉的な言動は禁物である⋯タルパ界隈にはこんな風潮も蔓延っている。個人的にその類の思想に賛同できないのは、前段で述べた通り、すべてを認めてしまうと本質を見失いやすくなるからだ。別に悪意から言っている訳じゃない。真理に到達するための行為に過ぎない。別に論理的に間違っているとも思えない。今はどうか知らないが⋯一時、小学校の運動会で、徒競走は全員同時にゴールして全員一位にすると言うアホな風潮が蔓延った。てか、今もそうなのか?知らんが⋯これでは体育が得意な子が可哀想だ。今のタルパ界隈は⋯まさにこれと同じ風潮だと言えよう。実に馬鹿げている。タルパ作りにおいて強い自己肯定感は必須となるが、ここで言う肯定とは意味が違う。

否定して行くことで本物のタルパへ進化して行く

否定して行くことで、はじめて本質が見えて来るのだ。肯定ばかりでは一向に本質は見えて来ない。否定して行く過程で見えて来た本質は⋯やがて、確信へと変わり、それが自分の中で強い自己肯定感として育まれて行くものになる。すべての条件をすぐさま肯定してしまったら、いずれ⋯続けているうちに、どこかで整合性が取れなくなり、そして、それが不安の原因となり、逆に自己肯定感は醸成されず、自己実現や自己成長へまったく繋がらないだろう。当然、アウフヘーベンも望めない。アウフヘーベン的な思考を養うためにも、一度、否定する勇気を持つ必要がある。アウフヘーベンは一石二鳥的な発想に類似しているが、すべての条件が不都合(=否定的要素)であるからこそが前提である。都合の良いものなら現状維持のままで良く、アウフヘーベンの必要性はどこにもない。

勇気をもって否定して行こう

自分のことは自分が一番よくわかっているはずだ。自分で自分に対してウソをつき続けても、この先、何一つ良いことはない。一度、自分自身も含めて⋯すべてを否定してみろ。自分にとって本当に必要なものが必ず見えて来るだろう。念のため、最後に大切な話をしておく。以上の話はタルパ作りにおける自分自身に対する姿勢に限られる。現実でこれを露骨にやると嫌われ、真っ当な社会生活が維持できなくなるので注意してくれ。いるよな。よく、会社の会議とかで、人の話に対して否定から入るアホ⋯そんなヤツ、最終的に誰からも相手にされなくなるので要注意だ。まず、共感から入れ。ただ、タルパ界隈に限っては⋯ショック療法的なものが必要だ。もういいから否定から入れ。否定されても冷静に自身のタルパの出自や前提条件などを説明できない者は偽物だろう。