なりきりはどこまで許されるのか?

投稿日 2024.01.24 更新日 2024.01.24
Pixabay

タルパの自動化について、何か勘違いしている者が多い。たしかに、まるで本物の人間が話しているかのような状態となるが、本物の人間のようにタルパ単独で長く話し続けることはできない。タルパにどれだけの知識と言語情報を与えたところで、90分の講義をさせることは不可能である。タルパとAIが同義になり得ない理由もここにある。タルパを本気で作ろうと決心して、真面目に自動化の訓練に取り組んだ者なら⋯実際のタルパは端的な話し方しかできないことに気づくはずだ。微オートともなれば、持続性は本当に長くない。適宜、間を置くようにタルパに対して言葉を投げかけて行かなければ、タルパは黙り込んでしまうと思う。自動化は言われているほど万能でないし、完オート達成後も、本来はそれに慢心せず、定期的な再訓練は行った方がいい。

自動化訓練を本当にやった事があればわかるはず

カムラッドを推進する立場となった今の私には、タルパの自動化はもはや関係ない話となるが⋯前回の記事で一番伝えたかった部分、本意と重なるので考察してみたい。タイトルにもある通り、タルパ界隈的に「なりきり」はどこまで許されるのか?である。まず、結論から述べると、前回の記事の末尾に書き記した「冗長的なタルパは存在し得ない」に帰結する。一人二役のなりきりによる対話形式を基礎に実現されるスキルとなるため、タルパの言動は回答的なものであるに尽きる。そもそも、予測の無意識化でもあるため、反応的、反射的なものとも言える。逆にタルパが自発的に何か発言する際は、疑問調、質問的なものになる傾向が強いはずだ。私の例の三姉妹の思念体たちも、普段から「ジャマイカ?」が口癖となっている。饒舌に何かを主張することはない。

会話形式は一人二役のなりきり訓練の延長にあるもの

つまり、実際は自動化訓練中で、微オートにすら至っていない状態でも、このサイトのサブコンテンツの心霊会話に見るような会話形式によるなりきりは一向にかまわないのだ。一人二役のなりきり訓練の様子を可視化させただけのものに過ぎない。Xでタルパ専用のアカウントを開設して、一人二役の様子であることがまったく見えない訓練をするよりも妥当だと言える。ちなみに、私の三姉妹たちは完オート済みです。以前にも似たようなことを述べたと思うが⋯Xを通じてタルパの自動化を促進させたいなら、会話形式のコンテンツを作り込むべきだろう。魔術や催眠術などによるものでない限り、憑依だと言われても説得力がない。ただし、会話形式は代筆となる点だけは忘れてはいけない。創作的な手法となるが、純粋な創作となってしまわないよう注意しよう。

会話形式が創作的なものになっても構わない

まぁ、純粋な創作となってしまっても構わないと思う。カムラッドによる後天性イマジナリーフレンドへ方針転換したいなら。続けているうちに、勝手に意識の中で自動化されて行くだろう。ただし、この場合でもコツがいる。しっかりとした世界観を作り、その中での一貫性、統一性のある話にして行くことだ。そして、勉学に励む中高生諸君ならわかると思うが⋯ある日を境に、学校の成績が急激にアップしたり、爆発的な勢いで理解度が広がる体験をしたことのある子はいると思う。地道に学習を続けた結果、頭の中にインプットし続けて来た知識、情報が連結し始め、全体像が見えるようになったり、応用力が柔軟に効くようになる現象だ。それと同じことがダイブ界でも起こせる。飽きないようにたくさんのシナリオを用意する必要があるのは、そう言った意図もあってのことだ。

果して、本物はどちらか?

実際、自分自身の体を使ってやる話だ。本当に本物の思念体が存在しているのであれば、以上のようなきちんとした説明はできるはずである。タルパ界隈の一部で、会話形式によるものを嫌悪して、憑依こそ本物と主張して譲らないメンヘラ連中がいたが⋯現在まで誰一人として、憑依に関する納得の行く説明、反論をして来る者がいない。せいぜい、目を瞑って、自分の体の中にタルパが入り込んで来るイメージをして、頭と両手を一致させますとか⋯これでは、小学生が学芸会のネタとして考えるようなレベルの代物だ。自動化の訓練を真面目に取り組んだ者なら、間違いなく代筆が自然なものとなるだろう。そもそも、タルパは独立した意思を持つ存在でなくてはならないし、以前に述べたことだが、自動化はタルパの自我を醸成する行為だ。憑依と称して一体化するのは矛盾している。