サンタクロースは死んだのか!?
人工精霊、タルパ、イマジナリーフレンド⋯これら思念体の実践において、不可解で奇妙な矛盾、二重性のようなものとの直面は不可避である。多くの人がこれに強い戸惑いを感じるだろう。今、上手くやれている人も⋯必ず通って来た道だろう。何の抵抗感もなく素で「できた」「作れた」「見えた」言う人は、自分を完全におかしいと疑った方が良いだろう。中には思念体の天才と自称する者まで現れる始末である。これは諸外国に見るような宗教的価値観が、生活にあまり根付いていない日本ならではのものだろう。幼い頃から教会へ通わされる国で育った子なら、物心が付き始めれば「神様は本当にいるの?」と疑問に思ったり迷い始めるだろう。そこは大人が良い感じのたとえ話をすることで、その子に現実との調和が取れた健全な精神が育まれて行くのだ。
思念体を実践して迷うのは正常、成長への証
これは以前にも述べたことだが⋯故に、キリスト教圏の国のタルパ実践者の方が、より実のある様子に感じられるのは、単に一神教的要素の重要性だけに気づいたからではない。こうした文化的、歴史的な身近な生活習慣も大きな影響要素としと考えるからだ。だから、迷うことは正常であり、その葛藤を経て本物の思念体が完成するんだと思う。それを内面や魂の昇華とも言うし、大いなる精神的成長プロセスになるんだよ。何も迷わず「オレ思念体の天才」言うヤツは精神科へ行った方がいい。たぶん、統合失調症による幻覚だと思うから。思念体でそのような傲慢な感情が持てる者は、預言者を自称するサイコパスな詐欺師か⋯神を自称する統合失調症の患者であるかのどちらかと一緒だ。逆にそうした迷いの感情を逆手に取り悪用するカルトも存在するので注意が必要である。
魂の昇華は心の葛藤から生じる
自分が考えたり感じているものはただの妄想では?自分はただのなりきりではないか?そう迷った時点で正常なのである。何の疑問も持たずにやっていた者はもう自重した方がいい。カルトや霊感商法にひっかかりやすいと思う。また、一向に内面的、魂の昇華は感じられないだろう。そう言った精神的作用は矛盾したもの同士のアウフヘーベンから起きるからだ。もっと具体的に説明しようか。中高時代、運動系の部活に入っていた子は⋯しばしば、こういう風に思っていたことはなかったか?この練習⋯本当に役に立つのか?本当に強くなれるのか?理不尽に思うこともあっただろう。運動系の部活に入っていた子なら⋯その後に得られた何かから⋯このありがたみが実感できるはずだと思う。昔は迷ったけど今がある!だろう。まぁ、良い先生や先輩に恵まれていればの話であるが⋯
自動化・視覚化との関連性について
思念体作成において主要なプロセスとされる自動化や視覚化も、実は内面の昇華により得られるものとなる。そりゃそうだろう。常識的に考えて⋯存在しないものと意思疎通を図ろうとしたり、見えるようにすると言う矛盾を超越しなくてはならないからだ。これができない人がSNSでなりきり垢を多数作成したり、DIDを自称し始めるんだと思う。矛盾の反対語は整合、つじつま合わせである。なりきりや自称DIDは見事なまでのつじつま合わせ行為に思わないか?思念体作成における正しい訓練姿勢は、こうした矛盾の超越を主眼、主軸にしたものになると言えるのだ。自分の身をもってやることだから、自分が一番よく分かっているはずである。つじつま合わせは無意識では行えない。すべて意図的な思考となるため、自動化や視覚化とは程遠い行いとなる。
サンタクロースはいる?いない?
日本のように良くも悪くも寛容な多神教文化の国で、曖昧で漠然とした宗教観念しか持ち得ない社会では、キリスト教徒以外の方で神に対して疑問を持つ機会は皆無だろう。自分も幼い頃にそんなことを考えたことは一度もない。幼稚園で日本神話を聞かされても、登場人物となる神々はアニメのスーパーヒーローくらいの感覚にしか覚えなかった。このため⋯日本の場合、サンタクロースがその役割を果たす存在になると思う。流石に幼稚園の頃の自分であってもサンタクロースはウソの存在だと確信していた。理事長先生の見え見えのコスプレに幼馴染たちも皆一様に白けていた⋯そう、日本の場合「興覚め」させられることで、わりとまともな精神が子供たちの中に育まれて行くのだ。だが、とりあえずではあるが楽しい⋯そこに矛盾を超越するためのヒントがあるのかもしれない。