タルパ界隈はオワコンである
時折、ファッションタルパーなる言葉を目にするが⋯そもそもの話である。この日本で本場チベットのタルパなんか作れる訳ない。あり得ないものに関して、何を持ってファッションタルパーとレッテル貼りをしているのか謎に感じる。冷静に考えて欲しい⋯ネット上で流布しているタルパに関する情報は、事実上、西洋魔術に由来する人工精霊と同義である。また、イマジナリーフレンドの代替的なものとして希望を見出されているきらいもあるため、思念体はオカルト的な色彩の強い人工精霊と、心理学的な側面の強いイマジナリーフレンドの二種類しかないのが本当のところである。なぜ、タルパにこだわり続ける者が多いのか?まぁ、タルパは語感的には可愛らしく、愛着を持ちやすいと言う要因も強いと思うが⋯今日はその点について考察してみたい。
私がタルパーと名乗らない理由
恐らくであるが⋯神妙なもの、オカルトから距離を置きたいと望みつつも、深層心理に触れられたくない思いから、心理学からも本能的に避けるよう距離を置いてしまい、中途半端な状態に陥っている人がタルパーを自認したがるのではないかとも考えている。このため、私自身は自分のことをタルパーと名乗ったことは一度もない。不思議に思っていた人もいたと思うが⋯私はこのタルパーなる言葉に強い違和感を覚えていた。以前にも述べたことであるが、タルパマンサーが正式名称ではないか?だが、現状においても、定義に関する議論が中途半端な状態ままであり、本当のところそれが何であるか分からないものに由来している点から、タルパマンサーと名乗るのすら正直躊躇いを覚える。しかし、それに対する明確な答えがカムラッド/カムラーとなりそうだ。
タルパ界隈の諸問題は一つの原理に集約できる
オカルトと科学の間で翻弄しているくらいなら、中庸路線である超心理学で迷いを払拭すべきだし、型を巡る議論に嫌気が差しているのであれば、すべての型を包括する枠組みに希望を見出すべきだろう。過去記事との重複になるが復習を兼ね、もう一回丁寧に説明し直す。創造型も⋯邂逅型も⋯単に設定条件の多い少ないの違いによるもので、本質的には同じ型だと言える。創造型は設定条件を厳密化させたもの、邂逅型は設計条件は極端に減らし偶然性に賭けたもの⋯と言える。創造と邂逅の間はグラデーションのような連続性のある広がりに過ぎないのだ。その中間的なもの、必要最小限の設定条件に留めた型が求人票型になると言えるだろう。また、発生型はアハ体験等をトリガーとしたもので、現実世界での邂逅に過ぎない。誕生型も邂逅型の一種と考える。すべて同じである。
楽しくないものは終了させろ
現実社会での人間関係に悩み、思念体に手を出す者が後を絶たない⋯それがいつしか、思念体の本懐から逸れ始め、本物の思念体を作り出すための議論や考察が蔑ろにされ始め、気づいたら思念体は建前と化して、自称思念体所持者のお気持ちお察しの世界に変わり果てていた⋯今のタルパ界隈はそんな感じである。ぜんぜん楽しくないし、そんな姿勢ではいつまで経っても幸せにはなれない。本当は思念体を作ることはどうでも良くて、思念体をネタに同類との交流、傷の舐め合いをしたかっただけの者たちが集まっているに過ぎない場所と化している。オカルトとか科学なんてどうでもいい、みんなバラバラでいいじゃないか⋯厳しい評論となるが、これを口にしたものは無責任過ぎる。確かに、思念体は主観的なものであるが、人間の意識の働き、心理自体にそう大差はない。
定義が難しいなら現実的な目的意識を重視すべき
タルパとは何か?そして、型を巡る終わりの見えない不毛な議論⋯それを考える前に、各自で問い質すべき問題がある。恐らく、多くの人は忘れていると思うし、気にも留めなくなった点だろう。思念体を通じて何をしたかったのか?やりたかったのか?である。あまり、誰とは名指ししたくないが⋯各自バラバラでいいじゃないか!!仮にそれを「国」と呼ぶ⋯は、長い視点で見ると逆に残酷だと思う。主催者は包括的な枠組み、将来的なビジョンとしてまとまりのようなもの、方向性くらいは考えて示すべきだろう。あのままではあれ以上発展しようがないし希望が見出せない。まぁ、それは余談として⋯確かに、定義に関する議論は難しい。ならば、その代わりに目的意識を重点においたやり方に変えようと思わないか?カムラッドはナフラを明確化させたものへ発展させて行きたい。