タルパの存在性を確率論的に再定義して行く道筋

投稿日 2024.02.24 更新日 2024.02.24
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持論だが、思念体は心の物理学である⋯従来の創造型、邂逅型、発生型などの型を、力や作用のようなものに見立てることで、統一化が図れないか模索している。物理学の大統一理論になぞらえたものとなる。大統一理論をかんたんに説明すると、電磁気力や重力などの作用を、素粒子レベルで一つの考え方にまとめることで、万物の根源⋯一つの真理に到達しようと言う試みになる。また、前回の記事でも述べた通り、これまで定義されて来た思念体の型は、互いに似通った部分があり、すべて連続的なつながりの上にあるものに過ぎない。創造的、邂逅的、発生的と言った要素、傾向が混在しており、明確にその立ち位置を決める必要性はないだろう。思念体は人間の意識の中における確率的な存在に過ぎず、分類する必要性はないと確信が持てる段階まで来た。

不確定性原理をヒントに型を曖昧化

以前、統一化を図り、一つの型にまとめる思惑を持っていたが⋯もはや、型そのものも不要だろう。〇〇型と言った具合に新名称を定める必要性もない。型なんてなくてもいい。そんなものを意識せず、思念体を意識でしっかり捉えることができていれば問題ないだろう。思念体の存在性と位置(ここでは型による立ち位置的な定義)は同時に成立し得ない⋯そう思えばいい。これも物理学の不確定性原理になぞらえたものになる。これも解りやすく一口で説明すると、素粒子の運動量と位置を同時に測定できない原理のことだ。そもそも、思念体以外にも人間の精神的産物は数多くある⋯それに対して、いちいち、〇〇型の思念だとか想念なんて言わない。同じ思念体である神仏に対して、そのような議論をするのは無粋であり、宗派によってはそれこそ重大な禁忌となるだろう。

タルパの型は歴史的使命を終えたもの

もちろん、タルパの作成や育成の手法に型のようなものはあって良い。具体的には、魔術系や占術系、心理系や催眠系など、流派的な分類である。方法論に関する分類や区分けはあっていい。このページでは方法論ではなく存在論に視点をおいた考察をしている。どの選択肢、道筋であれ、一つの真理に辿り着けるようになれば良いと思う。思念体の世界は⋯言わば、未踏峰の山なのだから。さて、頂上に一番乗りするのは誰なのか?行く末が楽しみである。タルパ戦争の終焉から10年経過した。そのまたさらに10年くらい先の話になるだろう。まぁ、そんな話はともかく⋯私は思念体に関するすべての型を否定するつもりもない。ここを誤解されたくないのだが、すべてをなかったものにしたい訳ではなく、歴史的使命を果たし終えたものとして考えているのだ。

シュレーディンガーの猫という意地悪な比喩表現も克服

現代物理学は古典物理学なしに成立し得たものではない。同様に、創造型や邂逅型、発生型などの型が、きちんと考察、議論、定義されていたからこそ⋯次の新しい段階へ進めるのだ。カムラッドの基本的な考えとなるアウフヘーベンもここで働く。次に、思念体の二重性について、新しい見解を加える形でおさらいをしよう。思念体はあらゆる側面から見ても、矛盾に満ちた概念の集合体と言えるだろう。現在までのところ、確定的に言える要素を確認することができない。さらに、永遠に中の様子を確認することができないシュレーディンガーの猫とまで表現した⋯実に意地悪な比喩となる。これに納得のいかない人は多いだろう。けれども、人間の意識を直接的に認識、確認し合うことは、オカルト的にも科学的にも難しい⋯そこで、猫の件は表現方法を変えようと思う。

自動化の有無に焦点を当てた存在確率を考える

存在する確率50%、存在しない確率50%⋯これを良い意味で言い直すと、騙されたつもりで!となる。いや、そんもん誰も納得しない。ならば⋯こうはどうだろうか?自動化された存在である確率50%、自動化されていない存在である確率50%だ。尚、ここで言う自動化の進捗率は考慮しないものとする。単純に自動化の訓練に着手しているか否かである。本物だとか偽物の区別はどうでもいい。タルパ戦争の狂騒劇は⋯騙した側も騙された側も心象自体は明確に認識されたものだ。ウソであったとしても心象は100%存在しているものであり、自動化されたタルパかどうかはしらないが、心象としてのタルパは確実に存在していると言える。タルパの存在性をこのように確立的に見ることで気持ちがすっきりするだろう。型もこの雲ような概念の中で曖昧化すればいい。