思念体の「型」は無意味である

投稿日 2024.02.19 更新日 2024.02.19
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タルパの「型」を巡る議論は、もはや無意味となりつつある。創造的であるか邂逅的(これに発生型も含む)であるかの要素、傾向的な特徴があるだけに過ぎず、本質的にすべての型は同じである。従来の創造型と邂逅型の間に、これら二つの型を明確に分離するための仕切り等は存在せず、グラデーションのように繋がっていた世界なのだ。誕生型や変遷型は⋯その中におけるシナリオとして、派生的な概念に過ぎなかったのだ。それにしても⋯なぜ、このような分類化が進められたのか?デジタル的な発想による型の多様化は、ただの分断に過ぎない。やがて、対立や差別を生み出すのは必至だ。枠組みに囚われない⋯アナログ的な視点で、タルパのあり方を幅広く⋯緩やかに容認すべきだったと言えよう。ただし、創造型と邂逅型を結ぶ線上にあることが必須となる。

創造型は何をもって創造と言うのか?

以前の記事でも述べた通り⋯例えば、創造型だと言う人は、何をもって創造と称しているのか?具体的にどのように創造したのか?省みて欲しい。やっているうちに、何となく形成された部分もあるだろう。発生的、邂逅的な要素も含まれているはずだ。ぶっちゃけ、自動化や視覚化の訓練自体も、発生的、邂逅的な行為と言えなくもない。何度も言うが⋯設計デザインした通りものが100%再現されることは決してない。どうしても、想定外の部分が出て来る。当然、人によりその差も大きくなるだろう。邂逅型や発生型もまた然り。ぶっちゃけ、日頃の思いや考え、感情などが⋯創造的要素として作用しているのは間違いないだろう。そう考えると⋯特定の型にこだわることは無意味に思えて来る。誰と誰とは言わないが、型同士で言い争いをしている者同士は⋯どことなく似ている。

タルパを確立的存在として認識すれば型の定義は不要

すべての型は本質的に同じであり、すべてのタルパ所持者は、創造型と邂逅型を結ぶ線上のどこかに自らの立ち位置を確立しているに過ぎない言えるだろう。そして、そのどこかは明確に図ることはできないし決める必要もないだろう。何度も言うが⋯心の中を見たり見せることはできない。かねてから当方が提唱している思念体の二重性、量子力学的な発想の観点から、電子雲の中に存在する電子のように、タルパを確立的存在として捉えるもの⋯と、例えたら良いだろうか。だから、位置は曖昧であっても構わないと思う。これ以上、型を新しく考案したり提唱するのも無意味だし無駄な行いだろう。そんな感じで、創造型、邂逅型、発生型、誕生型と⋯いろいろ評論して来たが、変遷型についてまだ不足に思う部分がある。もう少しだけ考察を進めよう。

変遷型は思念体世界の不安要素に過ぎない

変遷型について、もう一度だけおさらいしていおく。イマジナリーフレンドなどのタルパ以外の思念体をタルパにしたものとされるが⋯元がイマジナリーフレンドであるなら発生型的な存在だし、イマジナリーフレンド以外の思念体をタルパにしたものなら邂逅型的な存在だと言える。幼少期にいたイマジナリーフレンドをタルパとして復活させただけなら、創造型的な存在になると言える。変遷型とあえて区分する必要はどこにもない。それ以外の型についても同じだ。こうした⋯ある種の窓口的、外部要因的なものを呼び込む型は、双極性障害や内在性解離などの精神疾患で感じられたものを、タルパとして混同される原因、恐れとなるので廃止すべき概念だと考える。変遷型は病理的症状のある者を思念体の世界に招き入れやすくなるため、改めるべきものと思う。

挿入型について

従来の考察がニュートン力学なら、カムラッドをはじめとする新しい考察は量子力学に相当すると言えるだろう。最後に挿入型についても言及しておく。私は元々、八卦や気学、風水など、中国の自然哲学をベースに思念体を始めた口になる。このため、人間や動物などの生命を模した存在⋯人形、ぬいぐるみ、フィギュア等は否定的である。家の中にそう言ったものはできるだけ置かないようにしている。このため、挿入型についても否定的な立場だ。また、人型は魂も宿りやすく、すでに何らかの意思が宿っていたり、芽生えていないとも限らない。それに対して⋯強引に上書きするようタルパを作り出す行為には強い抵抗感を覚える。ただし、これはあくまでも私個人の意見に過ぎない。挿入型を実践している方の人格まで否定するつもりはない。で、挿入型は創造型だと思う。