オカルトと科学の狭間で思うこと

投稿日 2023.12.02 更新日 2023.12.02
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人生における大概の問題は⋯矛盾との戦いではなかろうか。少し耳の痛い話となるが、明日のため今をどうにかしなければならないのに、結局は現状維持の毎日⋯これに身に覚えのある者は少なくないだろう。特に人工精霊・タルパ界隈と呼ばれるネット上のコミュニティーの住人だ。まぁ、各々が抱える問題は各々に任せるとして⋯ここではもっと大きな視点での矛盾を語りたい。オカルトと科学と言う究極の矛盾についてだ。これを思念体の観点から具体的に述べ直すと、西洋魔術に端を発したオカルト的な人工精霊、人間心理の側面から注目される科学的なイマジナリーフレンド⋯この二つは同じ思念体でありながら相反するような関係性、矛盾にあると言えるだろう。もしも、これをアウフヘーベンすることができたら⋯思念体の世界は新しい次元へ進化して行くだろう。

矛盾を解消することで目的意識が持てるようになる

結論から言おう⋯思念体の世界における様々な矛盾をアウフヘーベンして行くことで、願望実現に特化、より目的意識化されたものへ昇華して行くと考える。思念体の「型」を一つにまとめようとする試みもこれと同じだと言え、オカルトと科学、創造と邂逅(また発生)、これらの矛盾をすべて超越して一つの方向性に向かうスタンスが、思念体の究極体型になるのではないかと睨む。既存の用語でいうならナフラの高級志向的なもの⋯個人的には、これを「想像上の仲間(カムラッド)」になるものと提案して行きたい。しかし、オカルトとか科学なんてどうでもいいと言う訳でもない。この世界の立ち位置が曖昧で不明瞭な者は、初心者か精神疾患のどちらかである。また、定義は重要であり、アウフヘーベンを実現するためには、明確に決められた要素同士の対立が必要だ。

存在と言うより概念として進化させる

このため、カムラッドは「存在」するものと言うより「概念」として認知されるものになると考える。私が自分のイマジナリーフレンドたちをまだカムラッドと呼ぶのを少し待っているのは、こうした個人的な思いが芽生え始めているからだ。カムラッドはチベット密教のタルパで言うところのギュルに相当するものとも考える。いや、それすら凌駕させたい。大変おこがましい発言となるやもしれないが⋯もしかすると、カムラッドは本当に神に近い存在になるかもしれない可能性を秘めているからだ。だから、自分の思念体はカムラッドと言うより、カムラッドを目指して永遠に成長し続けるもの、切磋琢磨し続けるものと思い始めている。カムラッドは極限状態にあるもので、99.9999999999⋯で限りなく100%に近づけて行くものとも考える。

概念として自分の中で消化すれば迷いは晴れる

太古の信仰は盲目的なもので、多くの場合、為政者の統治手段として用いられてきた。しかし、時を経て宗教は現実的な科学とも向き合い始め、オカルトと⋯と言ったら語弊があるかもしれないが、それと科学がアウフヘーベンされ、存在としての神から概念としての神へと昇華させたものが⋯近代先進国における信仰形態になると考える。現在、どんなに信心深い人でも、必ずや一度は「神は存在するのか?」と思い悩んでいるはずだ。信仰をオカルトと言ったら怒られてしまうので非科学的なものと言い直す。非科学的な行為と科学的な常識の間で翻弄もするだろう。どちらか選択しなければならないような苦境に立たされるだろう。しかし、概念として自分の中で消化して行けば、そんなものはどうでも良くなり迷いは晴れる。神は存在すると思うがそれは⋯である。

ただし「健常」と「病理」は矛盾しない

あなたなりの比喩表現を探すと良いだろう。概念を表現する方法はいくらでもある。まぁ、そんな話はともかく⋯直球ストライクに思念体は存在するとか生きている⋯なんて言うもんは、信じる側からしても強い違和感を覚える。SNSによるなりきりの憑依ゴッコも「オレが神だ!!」なんて言う狂人と差して変わらない。もちろん、なりきり界隈のなりきりは、最初からそうとわかった上で行う純然たる遊戯であるため、まったく問題はないし思念体とは関係ない。思念体でそのような不自然な行いをする者は、オカルトの最果てへ飛んでしまった者か、心理学を飛び越えて精神医学の対象となってしまった者のどちらかだろう。ちなみに、健常と病理は一見すると矛盾しているように見えるが、相反する事柄同士のものとはなり得ない。健常と病理は表裏一体の関係にある恐ろしいものだ。