思念体のオカルト的出自・科学的根拠について
まだまだ啓蒙が足らないようだ。オカルトは日常生活を活性化させるための刺激、スピリチュアルは運を良くして楽しい人生に変えるのが目的である。また、人類が宇宙に進出したこの時代において、オカスピ世界の住人だからと言って、科学オンチでいられても本当に困ります。これまで前提条件の必要性を強く主張しておりましたが、妙なものを引き合いに出されて来ても非常に困ります。オカルト的、科学的、このいずれの観点から何かものを語る場合、先人の叡智に敬意は払うべきだし、それを出自や根拠として活用すべきである。チベット密教の教えを知らずして、その奥義だけを求める心構えは褒められたものでないし、そのような姿勢でタルパが作れるとは到底思えない。まして、精神疾患と絡めて語るものはご都合主義にも程がある。現実を見ろ。
思念体で「悪魔の証明」を試みる者たち
前回の記事で最後に触れたこの件について、もう少し詳しく語ろう。悪魔の証明とは、存在しない事柄を証明しようと言う不毛な論法、試みとなる。具体的には⋯幽霊やUFOが存在していないことは証明されていない!と言うものだ。オカルト研究に勤しむ占い師がこんな話をするのも変だが、中庸性や客観性は何よりも大切にしている。盲目的なオカルトマニアはドン引きするし、有害な科学オンチを見ているとヘッドロックでもかまして、そのまま何かの角に向けて頭をぶつけてやりたくなる。タルパは妄想じゃないぞ!チベット密教ガー!がそうだし、健常者こそタルパはいらない!精神疾患が悪化する科学的根拠はない!もそうである。お前ら極端過ぎるんだよ。もう少し冷静になれ。タルパは第三者に証明できないし、精神に悪影響を及ぼすリスクが高いのは証明されている。
思念体は多くの矛盾と奇妙な二重性を持つ不思議な概念
思念体は多くの矛盾、奇妙な二重性を兼ね揃えた不思議な概念なんだよ。思念体の世界は、よくこんな表現が用いられているだろ?不可視の存在⋯これって、小学生でも理解できる言葉で言い直すとすれば「見えないけど見える」になる。もちろん、厳密には「見えないけど感じられる」が本懐となるが⋯そして、少しいじわるな哲学的な言い回しをするなら⋯永遠に中の様子を確認することができないシュレーディンガーの猫みたいなもんだ。だから、思念体そのものの存在性を議論することは馬鹿げたものであり、タルパはチベット密教の坊さんでないと作り出すことができないと言う主張に対して、怒りを覚えるのは心の修練が足りていない証拠と言える。また、これも以前に言ったことだが、タルパが精神疾患の治癒を目的に開発された経緯は1mmもない。チベットの坊さんそうか?
自分の立ち位置はどこにあるのか?
もう少し、オカルト的な出自と科学的な根拠に目を向けるべきである。思念体の世界でチベット密教ガー言うもんと、現実社会に対するルサンチマンに囚われたもんは、その間で翻弄しているだけ。もちろん、チベット密教そのものを否定している訳じゃない。今後も大いに研究して行くべきだし、応用のための実践を試みるべきだ。また、人生は本当にいろいろある。思念体が精神に癒しを与える効果があるのも事実だ。同様に積極的に研究して行くべきである。思念体は実践者の心構え次第で良い方に悪い方にも傾く。この点をいい加減理解して欲しいものである。現実世界で自分のことすらままならんもんに、精神世界で有益となる何かが得られるとは到底思えない。現実世界と精神世界は車の両輪みたいな関係であり、どちらか一方だけは絶対にあり得ない。
比喩表現は似非を炙り出すにはもって来いの風刺
物事のさじ加減のわからんもんは思念体の世界から去れ。比喩表現を真に受けて怒り狂ってるもんは偽物。そう、偽物をあぶり出すには持って来いになる。関係者なら知っていると思うが⋯いわゆる「大聖堂」と呼ばれる活動を一時的していた時期がある。やっていた本人が言うのもこれまた変な話となるが、あんなものでムキになる人は本当にどうかしている。やっていた本人たちは笑い転げていただけだ。私の人生の中で一番笑った時期になる。たしかに、悪い趣味だったかもしれないが⋯もしも、大聖堂が出現していなかったら、今頃、思念体の世界は性悪メンヘラだらけの場所と化していたことだろう。やり方は過激だったかもしれないが、問題提起をするには良い手法だった思う。もちろん、正常でまともな人が多くいるオカルトの他界隈に対して同じようなことをする訳ない。