実体的な自動化と象徴的な自動化
前回の最後に触れた、上手い具合に説明することの難しいアレであるが⋯これは、思念体の自動化と呼ばれるプロセスには、実体的なものと象徴的なものの二種類に分けられる点が大きく影響しているからだと考える。実体的な自動化とは、人工精霊(タルパ)、イマジナリーフレンド作成におけるものとなる。まるで本当に生きている存在であるかのよう、表情や言動、手足を動いて見えるようにするプロセスである。まぁ、一般人からして見れば狂気、奇人変人の成せる技だわな。これに対して象徴的な自動化とは、一般的な信仰、神への崇拝にあたる。以前は、チベット密教が特殊過ぎるだけで、一般的に自動化や視覚化を行う宗教はないと断言していたが⋯神の存在を信じる行為も、ある種の自動化になるのではないか⋯最近はそう考えるようになった。
実体的(命の作成)と象徴的(魂の感化)
自動化とは存在に対する無意識化であり、他の記事でも述べた通り、独立した意思、自我を醸成するプロセスになる。この点について一部で異論があるようだが⋯自動化そのものについては、本項の最後で丁寧に説明したい。まずは、象徴的な自動化とは何かについて語りたい。実体的な自動化が「命を育む行為」であるのに対して、信仰などによるものは完成された完璧な存在であり、自動化されていて当然が前提条件となる。このため、象徴的な自動化は「魂の感化」になると言えるだろう。付け加えて補足するなら、実体的な自動化は単独で実践するもので、象徴的な自動化は人間同士の相互作用的なものとなる。思念界(ダイブ界)と言うある種の教義の中で定義された設定キャラクターは、神と言わないまでも⋯外部から見たらそれに準じた作用が働くものと考える。
版権キャラクターとの関係性
この考えに根拠がない訳でもない⋯人工精霊(タルパ)の世界では「版権」と呼ばれるタイプが存在する。漫画やアニメのキャラクターをそのまま思念体として流用するものだ。好きな作品の好きなキャラクターをそのまま人工精霊(タルパ)にしてしまおうと言うものだ。デザインや性格設定などの作業が省略化され、尚且つ、思い入れが強く好きでやまないものであるが故、比較的容易に作り出すことができるようだ。その一方で、版権の場合、実体的な自動化が難しいように見受けられる。正直、思念体としての完成度に疑いを持っている。あえて前向きかつ好意的に捉えるなら⋯象徴的な自動化で、従来の宗教の信仰に近い形態ではなかろうと言える。やはり、ゼロベースで作り上げたものの方が実体的な自動化に取り組みやすいし、視覚化の成功率も高いと言える。
奇妙な二重性・パラドックスを発揮する象徴的な自動化
元は同じ神を信仰する宗教なのに、宗派によりイメージや解釈が若干異なるのは、思念界におけるダイブ界同士のパラレル化現象と似ている気がする。ただし、現実的な宗教の場合、思念体(神も思念体の一種)に対する捉え方は逆となる。自分たちの宗派の存在が本物であり、他の宗派の存在は設定キャラクターと見るむきがあるようだ。しばしば、宗派間の対立が問題視される。このため、人工精霊(タルパ)の世界でダイブ界同士の争いは起こりづらいものと考える。思念体のような個体的なものでもないので、ダイブ界に起因した感情的対立、トラブルは発生しづらいと言えるだろう。この観点からも、思念体を実践するならダイブ界との併用は推奨すべきだし、極力、思念体はダイブ界の中で楽しめば良いと思う。人工精霊(タルパ)の世界は平和となるだろう。
自動化は自我を生み出す行為なのか?
まぁ、メンヘラなんかにダイブは無理でしょうし、仮に作り話をしていたとしても、どこかで必ず整合性が崩れるのでウソは必ずバレます。何よりも話に深みがなくチープ。その話は横においといて⋯最後に自動化と自我の関係性について触れておきます。以前、他の記事で、自動化を「思念体独自の自我を醸成するプロセス」と説明したが⋯これはややオカルト的な説明だったと言えるだろう。心理学的な方面に少し傾けた表現に言い直すとすれば「思念体独自の思考を隔離するプロセス」となるだろう。当り前であるが、自我は本来、生命体しか持ち得ないものである。思念体そのものは無体的な無生物な上、自我に相当するものは所持者の深層心理に格納されている状態と言える。ぶっちゃけ、ラジコンと同じである。思念体の自我のあり方については個々で自由に考えて良いだろう。